沖縄生活の記録帳

仕事の都合で東京から沖縄にやってきた会社員の日常です。

気を信じることにしました

万物は気で繋がっていると信じることにしました。

 

私は気遣いが出来ず、気が利かない鈍い人間だったと思います。それは、「気の存在を積極的に肯定していない」ことが原因なのではないかと少し思ってみたのです。

 

最近、仕事も私生活もズタボロな状況が続き、それでも気丈に振る舞っていたのですが、「元気?大丈夫?」と色んな人が声を掛けてくれるのに少し驚きました。

 

そんなにヒドい顔してたのか?正直自分以外の他人が落ち込んでいたとしても、ある程度いつも通りに挨拶して軽口を叩いたりしていたら、心の奥底で沈んでいたとしても私にはそれに気づくことが出来ないんじゃないだろうか?

 

少なくとも自分的には、他人が心配になるほど辛さを表面には出していないつもりだったので、周囲の観察力に驚くと共に、逆に自分の目がどれほど節穴さんなのかを疑う理由になったのでした。

 

気というものは科学的に証明されてはいませんが、漠然と気の存在を信じている人は多いような気がします。

 

空気を読むなんて言葉が流行語になるあたり、目には見えないけどその存在を前提としている気がします。気になるとか、気遣いとか、気持ちがいいとか、気を感じるからこそ成立したような言葉も多い。

 

でも、気というとなにか怪しげな胡散臭さがありますね。気功とか言った瞬間に一気に怪しさ倍増です。

 

比較的地味で堅実な会社に勤めている私なので、毎日は地味な事務作業の連続で、超自然的なハプニングは起こりませんし、気で仕事が片付くこともありません。

 

比較的地味なビジネスの世界にいると、非科学的な存在を信じているだけでイタイ人みたいに思われるような風潮があると感じており、イタイ奴だと思われたくなくてそうしたスピリチュアルなものを遠ざけていたように思います。

 

でも皮肉な話、他の皆さんは実は気の存在を前提とし、空気をよく読み、かつ私を気遣ってくれていたようなのです。

 

周囲の皆はこんなに気遣いが出来るのに、自分には出来ないということは、他の皆にはあって自分には無いセンサーが存在するんじゃないだろうか?他の皆は自分が持っていないセンサーを持っているのだろう、と。

 

そもそも自分に備わってないセンサーは、現在持ち得ていない感覚を持つ以外に入手することは出来ないだろう?ならば認識を新たにして感覚を持つようにする以外に方法は無いんじゃないか?

 

前から薄々感じてたけど、気というものをもっと積極肯定した方がその存在をより感じられるんじゃないだろうか?そもそも存在を前提としなければ自分自身それを受け容れることが出来ないんじゃないだろうか?

 

と思ってね。